tokujirouの日記

古来バリアーは「障碍」と表記されました。江戸末期に「障害」が造語されましたが終戦まで人に対して「害」がつかわれることはありませんでした。「障害者」は誤表記です。「碍」の字を常用漢字に加えて「障碍者」に正常化を急ぎましょう。漢字文化圏では「障碍」が常識です。

冊子『碍の字を常用漢字に』をPDFにて配布いたします。(複製・配布歓迎します) https://bit.ly/2OIP0nX

「碍」と内閣府ヒヤリング

改定常用漢字につき文化審議会は去る6月7日に川端文科相あてに答申しましたが、答申にあたり「碍」の字の追加は見送りとなりました。但し内閣府に設置されている「障がい者制度改革推進本部」の意向を尊重して再検討するという付帯条件がついています。


これを受けて内閣府(推進会議)は表記に関する作業チームを設置し学識経験者などの意見の聴取を開始しています。偶々私もこのヒヤリング対象者に指名され昨日(9月27日)上京し意見を述べてきました。


以下はその要旨です。




内閣府ヒヤリング発言要旨 2010年9月27日】

         公用語における「しょうがい」の表記

                   
                                       NPO法人芦屋メンタルサポートセンター
                   
                                             副理事長 豊田 徳治郎

このような機会を与えていただきありがとうございます。


私からは「しょうがい」の表記について民間での使用は完全に自由とすることを前提に、条約、法令などの公用語については石偏の「碍」を使用した「障碍」「障碍者」の表記が適切であるという立場で意見を述べさせていただきます。


大きく三つにわけて申し上げたいと思います。この問題は(1)障碍者の問題である前に国語の問題であること(2)国際的視点から考える必要があること(3)障碍者制度の改革の一つの「旗印」になりうるのではないか・・・の3点にまとめて意見を述べます。


(1)障碍者の問題である前に国語の問題です。


障碍の表記は古来「障碍」「障碍物」「碍子」「融通無碍」など物や事象を対象に使用されてきた経緯があります。人を対象とした「障碍者」という概念がはっきりと確立されたのは戦後です。この点にご留意いただきたいと思います。


GHQの指導で戦争直後の混乱期の1946年に「当用漢字」が制定されました。漢字の「制限」が目的でした。石偏の「碍」がこの「当用漢字」から外れたため公用語はやむをえず同音ではあるものの意味が全く異なるウ冠の「害」をこれに充当して表記しました。障碍者関係では1949年に制定施行された「身体障害者福祉法」の表記がそれに当たります。 


その後、1956年に当時の文部省は通達を出し石偏の「障碍」を名指しでウ冠の「害」に書き換えるよう指導しました。これが問題の発端です。この通達により条約・法令などの公用語をはじめ学校や新聞などのメデイアや一般国民もこれに従いました。お手元の資料をご覧ください。通達には「広く社会に用いられることを希望する」と明記されています。


このため石偏の「碍」の字が国民の目の前から殆ど消えてしまったわけです。「日本碍子」という会社も通称を「日本ガイシ」とカタカナ書きに変更を余儀なくされたわけでございます。


「当用漢字」は35年後の1981年に見直しが行われ「常用漢字」と改称して再スタートしました。従来の「漢字制限」から「使用の目安」に性格が変更されましたが、この見直しで石偏の「碍」の復活が議論された記録はないようです。


更に29年を経過して本年11月下旬にも「改定常用漢字」が告示されようとしていることはご承知だと思います。今回の改訂の主眼は「IT時代への対応」で書けなくても読めればよいというものであり196字が追加されます。「制限」から「自由化」へ一段とはっきり舵を切ることになります。


今回の改訂にあたり、文科省は昨年春秋2回パブリックコメントを公募し国民に意見を求めました。その結果では、石偏の「碍」の追加希望が突出して多く、提出された意見書の数は春が20通で三鷹の「鷹」に次いで第2位、秋は実に86通もあり実質最多でした。


本年6月に文化審議会は川端文科相あてに「改定常用漢字」の答申を実施しましたが、この「民意」は反映されることなく、追加196字の中に石偏の「碍」は含まれませんでした。但し、この字については「障碍者制度改革推進本部の意見を聞いてみる」との但し書きがついています。


石偏の「碍」を追加字種に入れなかった理由として「使用頻度が少ない」ことが挙げられていますが、先に述べましたように1956年に「書き換え」を公用語に限らず国民に向けて「指導」しているわけですから使用頻度が少ないのは当然であり、使用頻度を問題にするのであれば書き換えられたウ冠の「障害」の使用頻度こそ問題にすべきものと考えます。


もう1点、文科省は「戦前はウ冠の障害表記が一般的であった」と断じていますが終戦直前のポッダム宣言の公式和訳は「障礙」と「碍」の元字が使用されています。お手元の資料をご覧ください。これ以上の公式文書はありません。文科省提出の太陽コーパスの資料を拝見してもウ冠の「害」が一般的であったとまでは言えないと思います。


言葉は全国民の共有物ですので、このような国語の問題を障碍当事者やその関係者の判断に委ねるという姿勢そのものにも疑問を抱いております。


以上が第1点でございます。


(2)国際的視点から考える必要があります。


次に表記問題を国際的視点から考察することの必要性について申し上げます。


2012年にはお隣の韓国、インチョンで「アジア太平洋障碍者10年最終年評価ハイレベル会議」が開催され、新しい10年に向けた作業が開始されます。


日本で障碍者制度の改革が進みますと、近い将来には他国の模範として日本は啓発・指導の責務を負うことになることが予想されます。特に障碍者福祉の面で未だ遅れている東アジアの漢字圏で日本はリーダーシップを発揮する必要に迫られるでしょう。その場合に備えて、たかだか表記の問題で相手にあなどられることのないよう漢字による表記はきちんとしておくことが肝要だと思います。


中国・韓国・台湾など漢字圏の全てにおいて「しょうがい」は戦前・戦後一貫して石偏で「障碍」または「障礙」と表記されています。台湾では現在も「碍」の元字である石偏に疑うの「礙」が使用されています。石偏の「碍」が「さしさわり」という意味であるのに対してウ冠の「害」には「人を殺害する」などの意味もあるとされています。ウ冠の「害」は語源的にも「人をあやめる」というのが通説になっています。


障碍者権利条約」は外務省の仮訳ではウ冠の「害」が使用されていますが韓国では石偏の「碍」を使用し「障碍人の権利に関する協約」となっており中国は「残疾人権利国際公約」と公訳しております。ウ冠の「害」を使用しているのは日本だけです。国連など公の場で我が国が恥をかくことのないよう特段の配慮が必要だと思います。


以上国際的視点の必要性について申し上げました。


(3)表記の変更は障碍者制度改革の一つの「旗印」になりうるのではないでしょうか。


推進会議での委員の皆さんの熱心な議論を通じて、改革のための立派な具体案が出来上がるものと確信しております。その次は出来上がった案を如何に「実行」に移すかということになります。案を具体化するには「予算化」が必要であり、厳しい財政状況の下で予算を確保するには世論の支持が不可欠です。単に障碍関係者の間だけでなく広く一般国民への周知が絶対に必要です。障碍に無関係の人達に対して障碍者制度をどう変えようとしているのか、なぜ変えなければならないのかを「平易に」説明しなければなりません。一般国民への「周知」に当たっては、国の主導による率先垂範が必須ですが、諸種メデイアにも全面的な支援をお願いしなければなりません。その場合、だれにでもわかる「旗印」があれば、より効果的でしょう。この際ウ冠の「害」と決別して石偏の「碍」で心機一転再スタートすることを宣言してはどうかと思います。


以上、繰り返しますが、民間は完全な自由表記との前提で、公用語に限り石偏の「障碍」表記が妥当との立場で意見を申し述べました。


石偏の「碍」の常用漢字への追加の時期につきましては、これまで答申前の追加の実現を期待していた経緯もあり、これまでに述べました理由で196字も追加されるのになぜ国民の要望の多い「碍」の1字だけが嫌われるのかとの想いはありますが、閣議決定・告示も目前の11月下旬〜12月初旬に迫っていることでもあり、誠に残念ながら前例のない告示前の1字追加は物理的にも困難な状況と理解せざるを得ません。これは図らずも障碍者問題への関係者の関心の薄さを露呈しているとも言えるでしょう。


国も推進会議も「障碍者権利条約」の早期批准を目指しています。国際条約の批准は天皇の国事行為です。この条約の批准にあわせて、推進会議の委員の皆様のこの問題へのご理解の深まりを待って、「碍」の改定常用漢字への1字追加を実施してはというのが私の意見です。「障碍者制度改革の旗印に」という私の提言の主旨にも合致するものと考えます。


次に事務局よりお尋ねのありました「第一次意見」が提起している「社会モデル」との関連についてお答えいたします。


結論から先に申し上げますとウ冠の「障害」表記は「医学モデル」であるのに対し石偏の「障碍」表記は「社会モデル」そのものだと思っております。私の仮説では石偏の「障碍」が仏教用語から一般用語に転じたようにウ冠の「障害」は医学用語としての英語のDISORDERがウ冠の「障害」と邦訳されて一般用語化し今日に至っていると推定しています。日本の西洋医学用語は幕末に主として蘭学から邦訳されたものが多いのですが「障害」という概念は比較的遅くに米国から導入されたものと推定します。「DISORDER」の邦訳にあたっては医学の権威を示すためにも既存の石偏の「障碍」とは区別する必要があったのでしょう。「医学者の役目は体から害を除去すること」との説明も可能だったのではないかと推測します。これが中国や韓国と違い日本では「碍」も「害」もおおむね同じく「ガイ」と発音することから一般用語化が進むに伴い市中で「障碍」と「障害」の混在・混用が促進されたのではないかというのが私の仮説です。


この仮説が証明されれば「障害」から「障碍」への表記の変更は推進会議の目指す「社会モデルへの転換」にぴたりと一致することになります。ひいては先にも述べましたように障碍者制度改革の旗印にする根拠にもなりうると考えます。


お尋ねの表記を「障碍」に変えることによる効果、周囲の反応等につきましては、「効果」については既に述べてきたところでございます。周囲の反応は極めて良好です。これまで多数の方に説明して参りましたがこの問題の背景についてご存じない方が殆どで、一旦丁寧に説明しますと殆どの方が納得され石偏の「障碍」表記への変更に賛成していただいております。


以上が事務局よりのお尋ねに対する回答でございます。


この機会に一言付言させていただきます。ご承知のように我が国の精神障碍者福祉の分野は特に意識の面で半世紀遅れているとも言われております。過去の偏った過剰な報道もありまして「精神障害者」という言葉には「何をするかわからない危険な人達」という社会通念が刷り込まれてしまっています。それで未だに「精神障害者のような反社会的な連中に福祉など不要である」といった声が聞かれるのも事実です。これこそ行政が不作為の責任を問われない大きな要因となっていると考えます。


このような社会通念やステイグマを除去し、あるいは軽減するためには思い切った、それこそコペルニクス的な発想で国民の意識を変革する必要があります。


この機会に推進会議にて「精神障害者」そのものの表記の改変を検討されることを提言します。ソフトな呼称・表記に変更することにより一般市民との距離が縮まり精神疾患の正しい知識の「周知」に資することと思います。加えて就労の促進にも効果があると思います。芦屋市では「心的障碍」を試用していますがこれに拘泥するものではありません。一応お手元の産経新聞の記事をご参照いただきたいと思います。


精神分裂病」の「統合失調症」への改称には10年を要しましたが「痴呆症」の「認知症」への変更は僅か1年で具体化しています。認知症への変更では厚労省主導による公募という手法が採用され早期に実現したと仄聞しております。ご検討をよろしくお願い申し上げます。


私からは以上でございます。ありがとうございました。