明治政府の神仏分離政策と「障害」表記
明治政府の神仏分離政策が「障害」という日本固有の熟語の出現と普及を後押ししたのではないかということは既に書きました。
それでは神仏分離政策で実際に何がなされたのか。アルザス日欧知的交流事業日本研究セミナーの報告書「明治政府の神仏分離と祇園祭」(著者 レスチャン・アニタ)によれば《神仏分離は17世紀に発想され、水戸藩の徳川光圀、岡山藩の池田光政等が寺院数を半減するなどしたが、法令として実施したのが明治政府で、明治元年より9年頃まで全国各地で寺院の破却が続いた。民衆が明治政府の対策(政策?)を廃仏毀釈として受け取って、廃仏毀釈運動をし、堂塔、仏像、仏画、絵巻物、経典などを破却または焼却した。》とあります。具体的には以下7項等。
①僧侶が還俗した。そして神主の身分が独立した。
②仏像を神体としている神社は神体を取り替えるようになった。
③仏教の用具をすべて神社内から追放するようになった。
④神社の前に仏像を置かないようになった。
⑤仏教的な用語を神号につけかえるようになった。
⑥仏教的な神名を変えるようになった。
⑦神社で仏教の儀礼が廃止になった。
⑤には仏教用語を神号につけかえた⑥には仏教的な神名を変えたとありますが、自発的にそうした例もあるでしょうし強制されたこともあったのでしょう。前段に《民衆が明治政府の対策(政策?)を廃仏毀釈と受け取って、廃仏毀釈運動をし、・・・》とありますので、おそらくお上の意向を忖度して必要以上の運動をした例もあったのでしょう。要するに、明治初期には官民一体で仏教色の一掃を図ったわけで、その中に文字が含まれたのも自然の成り行きだと思われます。
特に「障」と「碍」又は「礙」を組み合わせた熟語「障碍」「障礙」はそのルーツが仏教用語であることは誰の目にも明らかであり、仏教色一掃の流れの中で、「障碍」「障礙」の表記も除去すべしとの意見が政府関係者から出たとしてもおかしくありません。
除去となると代替語が必要になります。「障碍」「障礙」は仏教経典が出所とはいえ、古来、バリアー(barrier)やハードル(hurdle)の意味で広く一般的に使用されており、これ等に相当する代替語が探せども見当たらなかったものと思われます。熱心に探したのか、あるいは偶然なのか、「碍」や「礙」が「ガイ・ゲ」と発音される点に着目し、同音の「害」で置換してはどうかということになったのでしょう。当時も「害」は悪い言葉で好ましからずとの認識があったものと思われますが、まさか将来「障害者」のように人を対象に使用されようとは予想だにしなかったのでしょう。因みに「障碍者」という概念は敗戦後、欧米から輸入されたといわれています。とにかく、若干の違和感と後ろめたさを感じながらも、ここに「障碍」「障礙」の代替語としての日本固有の新造語「障害」が発生したのではと推測します。
「障害」の発生はいつごろなのか。文化庁の調べでは、「障害」という表記の初出は幕末の文久2年(1862年 明治元年は1868年)出版の『英和対訳袖珍辞書』にAnnoy,Annoyanceの訳語として手書きで「退屈なる物」「障害」と出ているとのこと。Annoyance の訳語として適当かどうかはともかく「障害」という表記が1862年の時点で日本に存在したという論拠にはなるでしょう。
官許の「布令字弁」の上梓が明治4年(1871年)であり、明治新政府が神仏分離令を発したのが慶応4年から明治元年(1868年)の間ですから、その準備期間等のことを勘案すると、これ等の出来事はほぼ同時期、即ち、幕末から明治初頭の出来事と捉えて良いでしょう。
「英和対訳袖珍辞書」が手書きで、発行部数も利用者も限定的であったのに対し、「布令字弁」は時流にも乗って増刷を重ね、今言うところのベストセラーだったとのこと。その影響力が大きかったことは容易に想像されます。その「布令字弁」から「障碍」も「障礙」も排除されたのです。
「布令字弁」は《政府の法令に含まれ得る漢語を集めた官許の辞典》です。最初の常用漢字表と言えるかもしれません。新造語の「障害」は第一巻セ之部に「障害 セウガイ ササワリ ソコナフ」として、第七巻遺漏、シ之部に「障害 シャウガイ ササハリゴト」として、ご丁寧にも二か所に掲載されています。これに対し「障碍」「障礙」共にどこにも見当たりません。明治政府によって完全に且つ意図的に追放されたものと思われます。
仏教色の一掃を策する維新政府としては、新造語「障害」を普及させる責任があります。それには「障害」表記を正当化するか「障碍」「障礙」のイメージダウンを図るかのいずれかです。何しろ「障害」は粗製乱造ですから引け目があります。それは「害」の字義です。「害」で構成される熟語にはすべて悪いイメージがあります。そうなると「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の伝で、《「障碍」「障礙」は平安末期から中世、近世にかけて、「悪魔・怨霊などによる妨げ」の意味で使われた言葉で決して良い言葉ではない。「悪魔」や「怨霊」に比べれば「害」のほうがまだましな言葉である》と言い募ることになります。これは奏功し、彼の漱石までもが「障害」を使用するまでに普及しました。
然し、このような迫害に遭ってなお「障碍」「障礙」は生き延びました。文化庁の資料によれば、明治・大正・昭和を通じての出現頻度は「障害」と「障碍」+「障礙」ではほぼ同数と見えます。
台湾は50年間日本の植民地を経験し、韓国は35年間日本の統治下にありました。それでも両国において「障害」表記が根付くことは一切ありませんでした。この言葉には、他の言葉を以て替え難い、きわめてデリケートな字義があるからでしょう。
敗戦の年、1945年にはポッダム宣言の中でobstaclesが公式に「障礙」と和訳されています。翌年、1946年には当用漢字が制定され、「碍」と「礙」は公権力により再び排除されました。文部省は1956年に通達で「障碍」は「障害」と表記するようにと国民を指導しました。その3年後、1959年6月4日付で石橋湛山は周恩来首相あてに書簡を送っています。いわゆる石橋三原則です。三原則の二には《経済において、政治において、文化において、できる限り国境の『障碍』を除去し、お互い交流を自由にすること》とあります。 了