tokujirouの日記

古来バリアーは「障碍」と表記されました。江戸末期に「障害」が造語されましたが終戦まで人に対して「害」がつかわれることはありませんでした。「障害者」は誤表記です。「碍」の字を常用漢字に加えて「障碍者」に正常化を急ぎましょう。漢字文化圏では「障碍」が常識です。

冊子『碍の字を常用漢字に』をPDFにて配布いたします。(複製・配布歓迎します) https://bit.ly/2OIP0nX

「碍」と「布令字弁」−2

 江戸末期から明治初期にかけて、翻訳語や新造語がどんどん出てくる時代状況の中で、官許の辞書「布令字弁」が「新令辞解」(太政官日誌其他の法令書中の法律的難解語の説明書)と並んで官僚や新聞雑誌記者はもとより、小説家にも参考にされたであろうことは想像に難くありません。

 それに新造語と見られる「障害」のみが掲載され、伝統的な「障碍」が外されているわけですから事は重大です。今日の「しょうがい」表記問題はここに端を発したと言っても過言ではなかろうかと思います。「障碍」不掲載の理由が新政府の方針の神仏分離廃仏毀釈にあったかどうかは問題ではありません。「障碍」が「布令字弁」に不掲載だったことが問題なのです。向後、官許の新造語「障害」が「布令字弁」を通して市井に拡散したことが明治期以降の「障碍」と「障害」の混在を助長し固定化したものと推定されます。

 「布令字弁」が出版された幕末〜明治初期以前に「障害」の使用例があるかどうかは不詳です。あればご指摘いただきたく。江戸末期の医学界での翻訳作業の中で沢山の新造語が出現したと思われますが、先に触れましたように大御所の緒方洪庵先生は「碍」の愛好家で翻訳書に多用しておられますので、すくなくとも江戸末期までは医学界は「障碍」を使用していたと推定されます。例え一、二の例外的使用例があったとしても当時はインターネットも無い時代ですから「布令字弁」のような拡散・普及作用は期待できなかったでしょう。よって新造語「障害」は明治4年に「布令字弁」でデビューしたと言ってもよかろうかと思います。

 平成22年4月に文科省で開催された第41回国語分科会漢字小委員会で配布された事務局説明資料の中に「布令字弁」が出てきます。この漢字小委員会では「碍」を常用漢字に追加することの是非が議論されたわけですが、事務局は終始一貫「追加は好ましくない」とのスタンスで対応しておられる様子がうかがえます。「布令字弁」の引用も、明治の初期にすでに「障害」の表記が使用されていたことを強調するためのものでした。

 同じ流れの中、文科省は「障礙」「障碍」だけでなく「障害」も古くから使用されていたという説明の中で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の作中の「毫も内臓の諸機関に障害を生ぜず」を採りあげていますが、「布令字弁」の出版が明治4年であるのに対し「吾輩は猫である」は明治38年(1905年)の発表(ホトトギス)ですから「障害」表記が普及する時間は十分あったはずです。漱石も「障礙」「障碍」は承知していたと思いますが「布令字弁」というお墨付きがありハイカラでもある「障害」を採用したのかもしれません。

 他方、森鴎外(1862〜1922)は1909年、雑誌「スバル」に発表した「金貨」の中で「障碍」表記を使用しています。「此別当が自分と軍人との間に成り立ってゐる或る関係に障碍を加へるものであるやうに感じた」(日本国語大辞典)実名、森林太郎は陸軍軍医でもあったので「障碍」と表記するのに何の抵抗もなかったのでしょう。洪庵先生の関係で医学界では当時も「障碍」表記が一般的だったと思われますので。

 わたくしの主張は、「布令字弁」に新造語の「障害」のみが載せられ「障碍」が省かれたために、従来の「障碍」の使用が制限され、且つ本来異なるべきはずの「障碍」と「障害」が同義で混在し、今なお混乱状態が続いているので、まずは「碍」の字を常用漢字に追加し「障碍」を法令等の「しょうがい」の公式表記に決定すべきというものです。表現の自由との兼ね合いもあり、後は放置しても「碍」と「害」では語源も意味も全く異なるので、落ち着くところに落ち着くものと思っています。